3連休の初日はかかりつけのお医者さんに行った後、図書館に行き、隣町散策としゃれ込んだ。今日は私の生まれ育った隣の町、吹田の垂水町にある「垂水神社」にやって来た。阪急千里山線・豊津駅の北西約600M、豊津駅南を東西に通る商店街を西へ、最初の信号を北へ、突き当りを西へ進むと参道に出る。参道を北へ進んだ千里丘陵の南端・垂水岡の麓の小高いところに垂水神社は鎮座する。
社標に「式内大社・垂水神社」とあるが、今から1100年前の延喜年間(907年)に、律令の施行細則として延喜式が定められた。これにより、神格が認められた神社を式内社(しきないしゃ)という。つまり垂水神社は、式内大社に列せられている由緒ある神社というわけだ。
常夜灯には明和元年の文字が刻まれていたが、1764年って言えば、江戸の大火があったときで、まさかそこ頃作られたものではないだろう。
そこから40段ほどの急な階段を登りつめると二の鳥居があり、
さらにその奥に拝殿が鎮座している。
このあたりには土着の豪族「垂水君」一族が住んでいた。垂水君の祖は、この神社の御祭神・豊城入彦命(とよきいりひこ)の四世孫である賀表乃真稚命(かほのまわかのみこと)と伝えられている。
この賀表乃真稚命の六世孫にあたる阿利真公(ありまこう)がいた。時は、孝徳天皇の時代(大化の改新後)、全国的な干ばつが続き、河川も井泉も枯渇してしまう。そこで阿利真公は高樋を作って垂水の水を宮中にまで導き、天皇のための飲料水を供給したのである。天皇はその功を賞して「垂水公」の姓を賜り、また垂水神社を司らせたのであった。
当時の宮は、難波に置かれていた。ここから難波までは、直線距離にして約10Km。両者の海抜差は5mくらいだそうだ。途中には障害となる山や丘陵はなく、論理の上では、樋を通して水を供給する事は可能だそうだ。しかし、途中には3本の川があり、川の海抜は0mに近く、ここでは、人力による揚水装置(つるべなど)を設けるなどしたであろうという事だ。
石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
垂水は古く「石走る垂水」)(岩の間からほとばしるように流れ出る清水)と万葉集にも詠まれている。
垂水神社の社名・地名である垂水とは、「高いがけから流れ落ちる水」を意味する。
今、社頭・石段下を左に入ったところに滝のなごりが2ヶ所残っているが、水量減少してチョロチョロと流れるだけ。しかし時たま、水垢離の行場として訪れる行者もあるという。
この看板がその真実を如実に顕している。
ここがその行場である。竜の口からか細い水がほとばしってはいるが・・・。
休日の昼間、境内にいたのは私一人。サイモンとガーファンクルの「サウンドオブ・サイレンス」じゃないが、境内は静寂に包まれ、外の喧騒がウソのようであった。
住所 大阪府吹田市垂水町1-24-6
地図