慈照寺「総門」をくぐると受付のような場所があり、ここで拝観料500円を払う。 受付のような場所から中門まで特徴のある「銀閣寺垣」の参道が続いている。
「銀閣寺垣」は低い石垣、低い建仁寺垣、それに樫、椿などの常緑樹の高い生垣からなっているが、左右の造りが異なっている。これがアンバランスな感じを与えているが、参道として趣があり印象的である。
中門を入るとすぐ右手に「銀閣(観音殿)」(上の写真)が見える。観光客の中には、金箔を張られた金閣に対応して、銀閣は銀箔を張った建物であることを想像してここを訪れて来る人もいるようで、想像していたような建物ではないと言い合っている声が聞こえてくる。銀閣の名は江戸時代になって起こったといわれているが、銀箔が張られていた証拠はないという。黒漆塗りの建物を何故、銀閣と称したのか。銀閣、金閣は共に西芳寺の瑠璃殿を真似て造られたといわれており、派手な造りの舎利殿(金閣)に対し観音殿は地味であったことから、銀閣と呼ばれるようになったのであろう、たぶん。「当初は名前の通り銀を着ける筈だったが、幕府の財政事情のため出来なかった」と言う説や、「銀箔を貼る予定であったがその前に義政が他界してしまった」という説もあるが、俗説に過ぎない。ちなみに、義政の妻日野富子はびた一文たりとも出さなかったと言う話がある。ちなみにもう一つ、金閣、飛運閣と併せて京の三閣といわれる。
「銀閣」の一層(一階)は心空殿とよばれ書院風の造り(上の写真は一層の一部)に、二層(二階)は潮音閣とよばれ花頭窓を多く用いた禅宗仏殿造りになっているようである。
上の写真に見られるように、「銀閣」のやや北寄りの東側に、白砂を敷きつめ表面に縞模様をつけた「銀沙灘(ぎんしゃだん)」が広がっており、その隅、銀閣寄りのところに白砂を円錐状に盛り上げ、頂部を水平にした富士山状の「向月台」がある。これらは、銀閣が造られた当時からあったものではなく、江戸後期に造られたものであるといわれており、義政とは何の関係もないものらしい。銀沙灘、向月台が造られた意図はわからない。 銀閣寺の生い立ちと関係がないといわれている銀沙灘と向月台が妙に印象的であり、何故か、目を引く。この角度からの風景が一番や、という銀閣寺ファンも多い事だろう。「銀閣」は国宝に指定されている。