2月17日(日)大阪豊能郡の我が家には雪が降り、「京都はもっと降ってる筈や」ということで「雪の銀閣」の次は「雪の金閣」を目指してまたまた阪急の特急で京都へ向かった。運賃を浮かせるために四条河原町で降りずに、一つ手前の四条烏丸で降りた。烏丸は「とりまる」ではなく「からすま」と読む。まず読めないので、観光客が「とりまる」と言ってても大目に見てやって欲しい。たった一駅違いで60円も得する事を知った。出口を間違え、着いたバス停は四条高倉だった。
目の前に大丸百貨店が四条通をはさんであった。昭和初期から大丸はここにある。
12番の立命館大学前行きのバスに揺られる事約30分で金閣寺前に着いた。雪は積もっていなかったが、降ったり止んだりを繰り返していた。バスを降りるとまず目に飛び込んできた風景がこれである。
これが「左大文字」、金閣寺大北山(大文字山)である。8月16日に夏の夜空をいろどる大文字五山送り火。
祇園祭りとともに京都の夏を代表する風物詩の一つである。この送り火としては、東山如意ヶ嶽の「大文字」が最もよく知られ(2月24日の私のブログを参照の事)、それゆえ送り火の代名詞の如く言われているが、そのほかに「妙法」「船形」「鳥居形」があり、これが午後8時以降に順に点火され、これを大文字五山送り火と呼んでいる。
1950年7月、大谷大学中国語学科の学生であり、鹿苑寺の坊主でもある林承賢(当時21歳)が当時の国宝指定されていた鹿苑寺金閣を放火し全焼させ、その日の夕方金閣寺の裏にある大文字山の山中で、毒物を飲み切腹をしていたのを警察の捜査員が見つけ、
その場で逮捕した史実がある。林は一命を取りとめ回復を待って取り調べられた。
5年後に金閣は再建されたが、この事件を三島由紀夫は「金閣寺」、水上勉は「五番町夕霧楼」という小説にしている。私は学生時代にどちらも読んだが、林の精神状態が理解できなかったのを思い出す。
8月の夕方、面会を拒絶されて家に帰る途中だった母は、息子の行いの責めを負って汽車から保津川に投身自殺した。その後林はどうなったかというと55年に出所したが、
56年に肺結核の為26歳の若さで死亡している。
金閣はお釈迦様の骨が祀られているといわれ、舎利殿とも言われている。金閣の二層と三層には金箔が貼ってあり、屋根の上には鳳凰が置かれている。
鏡湖池に映った金閣を私は「逆さ金閣」とこの時命名したのである。
一層は寝殿造り、二層は武家造り、三層は禅宗仏殿造りで、それぞれの様式がよく調和しており、これが華やかさをかもし出しているようである。